似非歴史シリーズ

『有来恩(ゆうらいおん)』

秦国に有来恩という徴税の役人がいた。
米の収穫が思わしくなかったある年のこと、このままでは徴税のノルマが達成できず、県令の怒りを買うことを恐れた有来恩は米の入った袋に粟を混ぜ、
あたかも大量に収穫したかのように見せかけた。当然のことながら県令に見破られて問い詰められたが、有来恩はこう弁明した。
「『粟』という字には『米』という字が含まれているので米と同じです」
だが弁明も虚しく、有来恩は処刑されてしまった。
しかし現在の中国においては何かしらのデータを公開する際、有来恩がやったのと同じ方法で数字を水増しして大きく見せかけていると言われている。
その一例としてとして各省内のGDPの総和が国家統計局の発表した国内GDPを上回るという怪現象があり、中国の経済学者の中には
「有来恩メソッドによる計算でも使ったのだろう」と陰口を叩いている者もいるという。

民明書房刊『STAP細胞もビックリ!古今東西のウソツキたち』より

『ナズナス』

西ローマ帝国末期のカンコーレ地方の行政官にナズナスという者がいた。
カンコーレ地方は農作業に適した土地であり、臣民を移住させて農作業にあたらせた。その一方、東方の蛮族の勢力圏と接している地域でもあったため、
たびたび紛争が絶えなかった。
ナズナスは蛮族に対抗しようと多くの人を呼び寄せたが、その者たちの食糧確保のために無計画な開墾を進めたために土地が痩せてしまい、収穫物が
激減してしまった。
もうカンコーレを捨てて移住すべきだという臣民に対し、ナズナスはこう言った。
「東方の蛮族どもは作物が穫れず衰退の道を歩んでいる。しかし我がカンコーレの地に手で触れてみよ。熱を感じるであろう。この熱に育まれればまた
多くの作物ができるに違いない」
だが翌年、作物は全く穫れず飢饉に陥り、多くの民が餓死したという。一方、作物が穫れず衰退していると言われた東方の蛮族は畑の土壌改良のために
耕作をしなかっただけであり、良い土に生まれ変わった次の年から作物が大量に穫れだした。こうして蛮族は力をつけ、西ローマ帝国を滅亡させるに
至るのである。
この故事から現在でもイタリアの学会などでは、実験や統計などでネガティブなデータが出てもそれを無視して主観丸出しでゴリ押してポジティブな結論を出す
論文を「ナズナス地熱効果が現れている」と呼んで馬鹿にする風潮があるという。

民明書房刊『STAP細胞もビックリ!古今東西のウソツキたち』より

『タナカスの腕組み』

古代ギリシアの王族カドゥゲムスは王位を継げる立場には無いものの、知略に長け多くの臣下がいた。
紀元前323年アレクサンドロス大王の死亡時の後継者決めの際、彼は一計を案じる。
後継者決定の会議の際には戦争を避けるため数人の護衛を除き兵を自らの領地に留まらせるのだが、
会議の地の名士ディエムエンの協力によって地元住民に変装した兵士により有力者を暗殺しようというものだ。
しかし会議当日に計画を知る護衛の一人タナカスが腕を組んだまま会議場に入ろうとした。
掌を隠す姿に暗器を仕込んで居ないか疑われたのは至極当然であり、彼らは疑惑の眼差しを受けることになった。
もう一人の護衛に扮したディエムエンは保身のためカドゥゲムスとタナカスの首を刎ね、
計画の責任をカドゥゲムスに押し付け暴露することで自らの地位と命を守ることができた。
どれほど時間をかけた計画も一人の僅かな油断で崩壊してしまうという指導者への戒めでありながら、
それ以上に民間でタナカスの名は忌み嫌われ、最大級の不快を表す蔑称として伝えられている。

民明書房刊『歴史の影に消えた有力者達』より

『ヌレイギヌ・オヴァ山の悲劇』

太平洋に浮かぶ観光の名所、クァンコレイ島はマインヅール地区にあるヌレイギヌ山は観光客に人気のスポットであるが、海軍基地が近くにあるため
立ち入り禁止区域が設けられていた。2014年7月13日、禁止区域に紛れ込んだ者が海軍基地を映そうとして機密漏洩罪で逮捕される事件が発生した。
帝国政府によると容疑者は東国からの観光客で、東国政府から任務を受けてスパイ行為を行っていたと自白し直ちにに刑されたという。しかし後の
調べで容疑者は立ち入り禁止区域に入っておらず、帝国憲兵が点数稼ぎのために犯罪をでっち上げてその辺の観光客を犯罪者に仕立て上げていた
ことが判明した。また同年11月9日、ヨコースカ地区のオヴァ山の麓の海岸にある民間造船所跡地でバザーが開かれようとしていたが直前で中止となり、
バザーに関わったスタッフが全員憲兵に逮捕されて直ちに処刑される事件があった。このニュースは世界中に広まったが、会見の場で帝国政府は、
容疑者は東国のスパイで、国民からかき集めた金を不正に送金していたと説明した。しかし海外ジャーナリストの調べによると、バザーは民間造船所を
運営していた会社からのクレームで開けなくなったことが判明。主催は海軍幹部の身内で、失態をごまかすためにスタッフを生贄にしていたのだった。
一連の事件の犯人に仕立てあげられた東国は激怒し、帝国に苛烈な経済制裁を加えた。海外観光客に悪評が広まって渡航を控えたのもあり、帝国は
たちまち貧困国に転落してしまった。この顛末は7月と11月の事件を合わせて「ヌレイギヌ・オヴァ山の悲劇」と呼ばれている。

なお余談ではあるが、日本国内では帝国シンパの某ジャーナリストA.Nがの帝国政府の発した情報を鵜呑みにしてゴシップ記事を垂れ流し、東国と
一時期関係が悪化する一因を作り上げた。「ペンは剣より強し」の本来の意味である「強大な権力の下では死刑執行のサインをすることで国民をいつでも
殺すことができる」を地で行く国家を擁護したことは日本ジャーナリスト界の汚点と言わざるをえない。

民明書房刊『独裁国家の最期』より

『治楚(いちそ、生没年不詳)』

前漢の絵師。字は仁久。大富豪の田中須(でんちゅうす)の庇護を受け、司馬布、宿借、胡西らとともに漢高嶺絵師として名を馳せた。
しかし後に醜聞により没落し、明代に発刊された『漢高嶺白書』からは彼の名が削除されていたため、かつては存在が疑われていたが、現在は
『史記』など前漢時代の書簡に彼に関する記述が見られ、実在人物であることが明らかになった。

略歴 

東の国で絵の修業を行い、紙舞(しぶ、無料で誰でも閲覧できる絵や詩文の品評会)に投稿を続け高評価を得ていた。彼の活動は田中須の目に止まり、
彼の思い描く世界を描くことになった。彼の下で「夕立」「時雨」「大鯨と龍鳳」などの少女絵が生み出される。同時期に「火覇本部」という工房を立ち上げ、
長安で夏と冬に開かれる絵の祭典に出展をはじめる。
少女絵はたちまち世間を風靡したが、ある日乱豚(当時長安を跋扈していたならず者)の泥棒に合い、大量の服を盗まれる事件が起こる。
しかしこの乱豚は紙舞の常連客であり、紙舞で見かけた伊治楚の絵にいつも高い評価をつけている客たちが着ている服と全く同じであることに気づいた。
そこで匿名で都尉に調査を依頼したところ、何と伊治楚は数千回以上変装して別人になりすましては何度も紙舞を訪れ、自分の絵に高い評価をつけいてたことが判明した。
さらに彼の描いた絵の大半は取絵図(とれえず、他人の描いた絵を写しとった作品)であった。
伊治楚は詐欺行為で逮捕されそうになったが、田中須の賄賂と隠蔽工作により難を逃れている。しかし伊治楚を盲信する者たちが「どうでも良い!」と喚き散らしたために
逆に彼の犯罪歴が明るみになってしまい、絵の売上はたちまち落ちて貧窮に陥った。彼の身を哀れに思った田中須は絵の仕事が無い時でも個人的に金銭の援助をしていたが、
そのことをかえって気にしたためか長安からひっそりと夜逃げするように出て行ったという。その後の行方については文献に記述はない。

作風 

可愛らしい少女絵を得意とする。特に横顔は伊治楚之角度と呼ばれるほど絶妙な向きを見せており、心理学的にはより可愛らしく見える構図とされる。
しかし正面の絵を描いた少女絵がほとんど存在せず、単に横顔しか描けないのではという批判がある。

逸話 

・「男の身なれど可憐なり」と呼ばれた容貌を持っていたが、『史記』によれば本人の自称であり、実際は凡百の容姿であったと書かれている。
しかし同時に田中須とは男色関係にあったとも書かれており、女性化願望の強かった田中須を惹きつける程度の容姿は持ち合わせていた
可能性がある。
・征服実行説得術という弁論術の一種をマスターしていた。
・田中須邸で行われた遊戯会で混雑のあまり人が入れなかった際、「きな臭い不正が行われているくさい」と参加者を責める発言をして物議を醸したことがある。
・大量の服で変装をして別人に見せかけた故事にちなみ、現代でもネット上で多数のアカウントを使い不正をする者を「服垢の魔術師」と呼び嫌うことがある。

嗚呼、伊治楚。 

「嗚呼、伊治楚。」とは『史記』に記された絵師、伊治楚にまつわる物語を起源とする故事成語である。

成り立ち 

紙舞で人気の絵師であった伊治楚が乱豚達によって取絵図などの不正を暴かれた際、乱豚が当時流行していた男色演劇でのセリフ「嗚呼、逝木曾。」をもじって「嗚呼、伊治楚。」と伊治楚を嘲笑ったことによる。

以後乱豚達の間では自らの書を数手間(すてま、自分の身分を隠し、自分自身の作品を褒め讃えること)しようとしたところ失敗し、発狂した

位句屋(いくや)ら卑劣な文化人を「嗚呼、―。」と嘲笑う風習が出来たとされる。

現代の「嗚呼、伊治楚。」 

基本的にはトレパクなどをしたり、他の絵師のネガティブキャンペーンをしたりする者に対して侮蔑の意味を込めて使われる。
しかし近年では「絵師を褒める」という誤った意味で使われることが多くなっており、この故事成語の産みの親たる乱豚の子孫たちはその動きに対して疑問を投げかけている。

参考文献 

・司馬遷『史記 絵師列傳』
・民明書房刊『嗚呼、伊治楚 驕れる天才絵師の末路』

『道碗呉(どうわんご)』

唐代の思想家。当時の唐には汚多(おた)と呼ばれる不可触民がおり、彼らの救済のために仁厚道(じんこうどう、にこどうとも呼ぶ)
を立ち上げた。歌に踊り、遊戯などの娯楽を汚多たちに無料で提供し、同時に彼らにも娯楽提供に協力してもらうことで一般庶民を
楽しませ、才能のある者は芸人や絵師として取り立ててもらうことで一般庶民になるという、いわば職業訓練と福利厚生を両立させた

システムを作り上げたのである。中でも上海安里枢幻楽団、南無光風楼、救里福屯という救貧団体は仁厚道実践者の中でも強大な 

影響力を持ち、御三家として敬われていた。
しかし道碗呉自身は増上慢なところがあり、仁厚道大会議と称して富豪からの資金集めや役人への贈収賄を行おうとして失敗するなど
経営面の失策が相次いでいた。そこで道碗呉は角川(かくせん)という大富豪を頼ることになり、角川も快く了承した。角川は造船事業の
宣伝のために仁厚道を利用しようと考え、この時点から仁厚道は汚多救済の目的から大きく逸脱をし始める。

角川から莫大な資金を得た道碗呉は用なしと言わんばかりに御三家を除名、造船事業に力を入れることになる。やがて仁厚道は 

擬人化した船を崇拝する宗教団体へと変貌し、道碗呉は教主として君臨、汚多の信者を多数獲得した。だがその栄華も長くは続かず、
安史の乱では安禄山に肩入れしたために信者もろとも滅ぼされた。仁厚道を自ら踏み外した外道の敢えない最期であった。
一方の御三家は本来の仁厚道の実践を続け、上海安里枢幻楽団の根城の上海は後にアジア一の大都市となり、南無光風楼が
作り上げた人材育成と売り込みのノウハウは後世のプロデュース業のお手本となり、救里福屯の住民が作り上げた歌曲は現在でも歌い継がれている。道碗呉が「終根(おわこん、根から終わっているという意 味)」と吐き捨て切り捨てた三団体の思想が現代に連なっているのは皮肉としか言い様がない。
なお余談であるが、仁厚道の出し物を見て面白いと思った者は金の代わりに草を投げ入れていた 。貧困のあまり草しか与えるものが無かったのだが、男色芸を売り物にしていた団体が事情を知らず激怒して観衆を皆殺しにした事件が起きている。それでも仁厚道の末期はもはやこの男色芸しか売り物が無かった。

民明書房刊『富豪脅迫!共産主義の逆襲』より 

『絵舞得夢禰(えむえむでい)』

唐代の仁厚道の実践団体、救里福屯の初音比丘は歌の名人であり、踊りも達者であった。そのノウハウを挿絵つきで
詳細に記録した絵画が残されており、この絵を見て舞えば誰でも夢心地の気分が得られるという意味で絵舞得夢画と呼ばれた。
やがて汚多の誰かが禰(父の廟)で霊魂を慰めるために絵舞得夢画の歌と踊りを披露したがこれが大いに受け、やがて禰は
歌と踊りの修業の場と化し、絵舞得夢禰と呼ばれるに至った。
しかし仁厚道に角川が関わり始めた頃、道碗呉は「神聖な場所で乱痴気騒ぎはけしからん」と絵舞得夢禰を禁止した。
これが御三家追放のきっかけになったと言われている。しかし道碗呉はあろうことか絵舞得夢のノウハウだけを盗み角川の
使用人に対してのみ「艇絵舞得夢」として船の上でのみ踊ることを許可した。絵舞得夢禰の常連であった辺穂忌(べほいみ)は
「禰は死者を祀る場所故歌い踊るのを禁じるのはわかるが、船の上で歌い踊っても沈没事故の元になり禰に送られるだけだ」と
日記で痛烈に皮肉っている。

民明書房刊『踊る大中華圏』より 

『逸天溢苦(いってんいっく) 逸天荷陸(いってんにろく)』

元朝中国に前川(ぜんせん)という興行師がいた。折しもフビライ・ハンが日本への侵攻を企てていた頃に造船が盛んになり、それに目をつけた前川は東の小国占領の前祝いと称して各地で盛大な宴を開き、大量に人を集めた。
しかし二度の日本侵攻に失敗したことでたちまち厭戦気分が国中にはびこり、宴に集まる人もいなくなった。
たちまち貧困に陥った前川は「天の機会を逸して苦しみが溢れてきた」と嘆いたという。
これが転じて「逸天溢苦」と呼ばれるようになったのである。
また同時期に大西(だいせい)という興行師も造船ブームに乗じて前川と競い合うようにして宴を開いていたが、同じく人が集まらなくなり、船上での宴に使われる予定だった引き出物が大量に余って陸に荷揚げせざるを得なくなってしまった。
この様子を見た大西は「天の機会を逸したために荷は陸に上がる」と悲しんだという。
これが「逸天荷陸」の語源である。現在では両方とも「周りの流行に便乗して結局失敗すること」の意味で使われており、
ネットスラングでは「1.19」「1.26」という形で書かれていることが多い。

民明書房刊『覇権国家時代の中国』より 

『破魔尼(はまあ)』

元寇は文永の役において、フビライ・ハン率いる軍団が大量の船団を差し向けて東の国、日本を侵略せんとした。
毒矢に火薬兵器など見慣れぬ兵器に日本軍は苦戦したが、どうにか追い払いその撤退途上で船団は嵐に遭い大打撃を受けた。
俗に神風と呼ばれているがこれを起こしたのは一人の尼であるという伝説が九州に伝わっている。
尼は三日三晩祈祷を捧げると、たちまち嵐が吹き荒れ翌日には嘘のように晴れ渡ったが、船団は海の藻屑に消え静かな海を取り戻した。
この様子を描いた絵は「静画」と呼ばれ、現在でも元寇資料館に保管されている。
神風を起こした尼は九州で破魔尼(はまあ)と敬われ仏の化身として崇められたが、戦時中に国家神道を普及させんとする軍部によって徹底的に弾圧された。
破魔尼の名誉が回復するのは戦後になってからのことであった。

『四位立波(しいたっぱ)』

日本占領を諦められないフビライは二度目の船団を差し向ける。これが弘安の役である。
しかし前回の侵略により元軍の戦法を熟知した日本軍はすでに防御体勢を強いており、数に劣るも元軍相手に奮戦した。
中でも御家人の一人、四位立葉(しいたっぱ)は魔理光霊(まりこれ)と魔理朱刀(まりすと)のふた振りの刀を用いて単騎突入し、元軍を次々と血祭りにあげた。そして元軍は再び嵐によって大打撃を被ったが、「立葉の獅子奮迅の働きが大波を立たせたのだ」と時の将軍 北条時宗に絶賛され、「立波」の名を授けられた。
なお、立波は日本の先住民族であったインム族出身という説があるが、近年になって彼が書いた手紙が発見され、
そこにインム用語が多く書かれていたことからインム族出身であることが濃厚となった。
ちなみに手紙には元軍は寄せ集めで士気が低いことという内容が書かれており、戦術眼も持ち合わせていたことがわかる。

民明書房刊『日出国を守りぬいた英雄たち』より 

『司馬布(しばふ)』

前漢の絵師。漢高嶺絵師の筆頭的存在であり、その独特の絵柄が評価され名を国じゅうに轟かせた。
だが庇護者である田中須との折り合いが悪く、ある時期を境に田中須から干され陽の目を見ることはなくなった。

略歴 

学問に励む一方趣味で絵を描き紙舞にもいくつか投稿していたが、そんなに目立つ評価はなかった。
だが彼の絵柄に田中須は彼に目をつけた。
当時、頭雲(ずうん)という芸術家の絵が独特の絵柄ながら高評価を得ており、それと同じ雰囲気を醸しだせると踏んだからである。
司馬布は「吹雪之少女」「赤城之女弓兵」「大井北上之図」など多数の少女絵を生み出し、田中須の宣伝もあって「第二の頭雲」とも言える存在になりつつあった。
しかし、調子に乗った田中須は「大井北上之図」の描き直しを命ずる。「この絵に出てくる二人の女性の服装を際どい格好にしろ」と言った田中須に司馬布は「肌色を増やせばいいというものではないでしょう」と激高した。
田中須の商売での師匠である角川(かくせん)のとりなしで司馬布は渋々描き直しに応じたが、それ以降田中須との仲が険悪なものになっていく。田中須は従順な伊治楚を溺愛するようになり、司馬布はクビにはされなかったが仕事を任されることは少なくなった。
司馬布の方もたまに与えられた仕事を手抜きをするようになり、評価は落ちていった。
しかし本人は気にすることなく、学問に再び打ち込みだしたという。

作風 

どこか野暮ったいが柔らかい顔の少女絵が特徴的であり、頭雲との共通点がいくつかかいま見える。
また、学者の卵とあってか研究熱心な面が絵に現れている。
例えば彼が残した少女弓兵図では弓の構えが、実際の漢軍の弓兵が行っていた構えと同じであり、司馬布は相当こだわりをもって描いていたと思われる。
その一方、「赤城之女弓兵」は彼の作品と思われていたが近年になって彼が漢高嶺絵師として活躍する以前に紙舞で「赤城之女弓兵」という名前の全く同じ構図、同じ絵で他人が投稿していた作品が遺跡から発掘され、盗作疑惑がかけられている。

逸話 

歪んだ性癖の持ち主であり、「子供の頃に好意を寄せた女子の髪の毛を引っこ抜いて自慰の道具に使った」など赤裸々に公衆の面前で語ったことがある。

参考文献 

・司馬遷『史記 絵師列傳』
・民明書房刊『中華芸術史』

『湾土楼(わんどろ)』

唐王朝、玄宗皇帝時代の中国東部では海や湖の風景画を描くのが流行っており、絵師たちは湾に土楼(土壁と木の骨格からなる家)を建設して
そこに寝泊まりして絵を描く程であった。
しかし近衛軍の将軍、漏野と霊別華は水軍補強のために船を大量建造しはじめ、湾土楼に住んでいた絵師たちは風景が台無しになるからと抗議の声を上げたが
そのことごとくが捕らえられ、処刑された。代わって、漏野の息がかかった絵師が船の絵を描き、宣伝に利用したという。

当時の唐軍の規律は乱れに乱れており、船の建造現場で海水浴をする兵士が出る始末であった。

すると今度は船の絵を描いていた絵師から邪魔だ、との抗議の声が上がり始めた。
漏野は優柔不断な性格から船描き絵師を処断できずにいたところ、一人の兵士が現場で魚類の養殖を始めてしまう。
当然絵師は抗議したが、部下をかばうあまり「これは魚でなく船である」と妄言。
激怒した絵師は漏野に不満を持つ部下とともに漏野と霊別華を襲撃して殺害、反乱軍となって後世の歴史家をして「核兵器が落とされたかのようであった」と言わしめるぐらい破壊と暴虐の限りを尽くした。
この乱に便乗したのがかの安禄山であるが、彼の反乱についての結末は諸氏の知る通りである。

民明書房刊『芸術弾圧の歴史』より

※漏野(もれの)、霊別華(れべっか)

『手泣火大神(たなかおおみかみ)』

艦古書記(かんこしょき)ないし春樹風土記(はるきふどき)に登場する鎮守府神話の神。
角川大社の祭神の一柱。
船の擬神格化した軍神であり、艦民族の総氏神とされている。
雄々しき手を組んだ姿であらわれ慈悲の涙を見せながらも火を放つ伝説から
手泣火(たなか)神の名の由来とされている。
また試練の神として信仰されており、簡悔様(かんくやさま)として民間信仰で親しまれる。
一説では手泣火呼神(たなかこしん)という記述の資料では女性言葉を使い
「呼」という女性詞がついていることから実は女神ではないかと言われている。
資料などで描かれているお姿は大半が腕を組んでいるのが特徴であるが
時代によってはクマに乗っていたり近くにいたりする描かれ方もあるため
クマになにか関係しているのか、狩猟の神としても祀られていることが稀にある。

艦民族の一部には邪神として扱っている者がいる。
その際は【負解神】として表現されている。
負の感情を解せぬ神という意味で名付けられた説が地熱歴史学者の中では有力。
また勘違いした国外の人が、草の神として祀っているという話もある。

『伊治祖命(いちそのみこと)』

艦古書記(かんこしょき)に登場する鎮守府神話の神。
角川大社の祭神の一柱。
歌や踊り、絵画などの芸事の神として信仰されている。
男性神であるが女性のような可愛さを持つためしばしば女性神に間違われることも。
平艦時代にご神体が何体も分裂するという伝承があり(複分け御霊)、
それにあやかり一族が増えて繁栄しますようにというところから
「いち族の祖」つまり「いちそ」神として祀られるようになる。
江戸艦時代には「祖」の字を持つためか道祖神としての意味合いも持つようになり
道という道におびただしい量の伊治祖神の祠が建てられたが
そのほとんどが有名な神社仏閣を模したモノであったために後年の一揆の時に
ついでに潰されてしまった(秋の豚一揆)
今では軍港などに少数しか残っていない。

地域や時代によって多くの別名を持つ。
必子神(ひっし)    :男同士でも必ず子を宿せるようにという願いが込められ習合した際の名前
             艦明治時代の文明開化時に外国衆道が大流行した時に祀られた
私市陣(しいちしん):「陣」の文字は「神」が訛りで変移したもの。「しん」と読む。
           戦艦国時代での防衛の神としていた時代の名前。
           文字通り自分(私)の市場(城含む城下町)の陣(防衛ライン)から
           また自陣防衛の他に自分で自分を守る(擁護)するご利益も含まれる
九条尊(くじょう)  :鎌倉艦時代の京都の一部で信仰されていた。
            歌や踊り等の芸事の神として京都の九条から名前がとられた。
四四久神(よしひさ):艦史記(かんしき)の尊称。湊譲り後の別名とする説も。

『三・八事件』

三・八事件とは、平成27年(2015年)3月8日に在日艦国人の呉 毎佳(オ・メガ 通名:小関直哉)が、
兆海道で複数人の恒心教信者による集団暴行を受け、死亡した事件の名称である。

●事件の経過
平成27年3月8日早朝、掲示板の内容に立腹した呉(当時26歳)がこれを勝手に改竄、その経過を発見した
恒心教の信者が直ちに教団に報告、駆け付けた他の恒心教信者に囲まれた呉は為す術もなく、
その場で怒り狂った信者達から報復の暴行を受け、この時に受けた傷が元で息絶えた。
呉は死の間際に、「どうすればいいの…… どうすればいいの……」と呟いたという。
この事件に当時直面した住民の中には呉に手を差し伸べた者もいたが、直後に信者の暴行に荷担している。

●被害者の詳細
事件の被害者である呉は文学に秀でていたが、生前は評価されず、作品の多くは彼の死後に公開された。
その中で『結婚括弧仮 初霜之場合』という作品は、第三者によって有声化される程極めて著名である。
本籍地である百科(ベクワ)では王 無頼という名前で活動しており、独特の文才でその地に貢献していた。

●事件の評価
事件後も信者の手により、同じく在日艦国人の牟 莱路(モ・レノ)や柳 阿山(ユ・アサン)らが命を落としており、
呉の死を皮切りに、恒心教信者による在日艦国人の迫害が始まったとする見方が多数を占めている。
当時艦国人らの横暴に悩まされていた現地の住民には、後に続くこれら一連の流れのきっかけを作ったとして
この事件を肯定的に受け止める者が多く、恒心教が支持をより広げる足掛かりとなった。

●関連項目
白 奏治(ベク・ジュチ) …事件の被害者・呉の娘。
ジェルジェル …三・八事件の翌日に起こった三・九闘争の主犯。呉の親族という説がある。
ダーメデス・ヤーマン …駄目です

『多男市(たないち)』

宋王朝の時代は性風俗が盛んであり、男娼を売り物にしている遊郭も多数作られた。中でも首都開封にあった「多男市」は
文字通り全国からかき集めた多数の美男子と美少年が性的奉仕を行う専門店しかない歓楽街で、今で言うゲイタウンであった。
中でも伊七索(イーチーソウ)という美少年は「男癖可愛也」と称され、皇帝もお忍びで伊七索のいる遊郭に通っていたという。
北宋が金によって滅ぼされた後、多男市も南宋の首都臨安に移された。しかし南宋はモンゴルの侵略を受けて滅亡、この際
将軍ノンケ=ハンによって多男市の男娼は全て殺され、豚の餌にされた。
多男市が見直されるきっかけになったのは清王朝時代に発行された男色小説『姦肛麗』である。この小説は男色版『金瓶梅』とも
呼べるエロ小説で不快(ふかい)という架空の主人公と伊七索の恋愛劇を描いたものであるが、千文字ごとに読むにに耐え難い
グロテスクな描写が挟まれるため(通称:千取合戦)発禁処分となった。
なお余談ではあるが、千取合戦の部分のみ収録した豆本が今でも中国の好事家の間でバカ売れしているという。

民明書房刊『アダムとアダム』より 

『紅殺信仰』

中国で古くから伝わるとある民間宗教では「紅殺神」と呼ばれる祟り神が祀られている。
紅殺神はその名の通り赤いものを身に着けている者に取り憑き殺すと言われており、信奉者たちは決して赤いものを家に置いたりはしなかったという。
西暦208年、曹操の水軍が孫権の領地に攻め入った際、諸葛亮孔明は火攻めを決行したがこの時祈りを捧げて風向きを変えたと言われている。
実はこの時に祭壇に祀られていたのが紅殺神であった。果たして曹操軍10万は火だるまになり軍船は全て沈み手痛い敗北を喫するのであった。
これが有名な赤壁の戦いであり、つまり孔明は「赤」という地名を駆使して曹操軍に祟りをなしたのである。
この故事から転じて紅殺神は敵の船を沈める軍神となり、いつしか艦殺神と呼ばれるようになった。
時を経て日中戦争の頃、米軍は中国に義勇軍「フライング・タイガース」を派遣した。
彼らの手によって艦殺神の故事が米軍に知れ渡ることとなり、太平洋戦争では雷撃機や艦上爆撃機に艦殺神を擬人化したノーズアートが描かれ、
日本軍艦隊を沈める祟り神と化して暴れまわったのである。
なお余談ではあるがノーズアートの艦殺の顔は「( ・∀・)」というAAに酷似しており、
アメリカ人ネットユーザーから「Ship killer man」というスラングで呼ばれることがある。

民明書房刊『軍神百選』より 

『玖条の股くぐり』

福島県(現在の石川郡古殿町鎌田)の出身。歌い手で絵師として手癖も悪かったため複垢に明け暮れていた。
ある絵師しばふの元に居候していたが、絵師の同居人岡宮道生が玖条を嫌いろくに食事を出してくれなくなった。
そのため放浪し、見かねた井上伸一郎に数十日すごい物量の食事を恵まれたが、
玖条が「偉くなったら礼をしますよ」と言うと「あんたが可哀想だから恵んでやっただけで、礼なんて望んでいない」と返された。

ある日、街の役人・松原眞樹に「お前は男の癖に可愛く立派な尻穴を持っているが、もしお前が度胸があるなら俺に謝罪させてみろ。そうでなければ俺の股をくぐれ」と言われ、
玖条は冷静にその松原眞樹の股をくぐった。見ていた者は大いに笑った。

後に玖条が大人気艦船擬人化戦略ブラウザゲーム艦これの公式人気絵師になった時、若い頃食事を恵んでくれた井上伸一郎に対し時雨の命日ポエムを与えた。
また彼を股くぐりさせた街の役人・松原眞樹に対してはカドカワゲームスの社長に任じ、あの時我慢したから今の自分があると言って謝罪させた。
しかし最初に面倒は見たが食事を出さず玖条を追い出したしばふに対しては吹雪を主人公のアニメを作らせ、世話をするなら最後までしろと言い、夢で見たからとなじった。

『枕狐』

唐王朝の頃、とある農村に一人の若者がいた。彼は山で柴刈りをしている最中、怪我をした狐を見つけた。
可哀想だと思った彼は家に連れ帰って手当てをしてやり、その晩は狐の体を枕代わりにして寝た。
深夜、戸を叩く音で若者は目を覚ますと狐がいないのに気づいたが、まず先に戸を開けた。そこには
艶めかしい姿の女性がいた。若者は「狐を知らないか」と聞くと「私がその狐です」と言い手当ての跡を
見せた。若者はその晩狐と契り、妻として娶ることにした。
若者は幸せな生活を送っていたが、嫁は周りに人を人とも思わぬ態度を取っていた。それに感化されてか若者も
傲慢になり、二人は次第に村の人間から嫌われはじめた。そんなある日、嫁は「船旅をしたい」と言うので若者は
海に連れて行き、船に乗った。しかし彼らを憎む村人はこっそり後をつけ、船に穴を開けて沈めて殺してしまった。
その時、狐の姿をした魂が海底から天へと登って行くのが見えたという。
この故事がどうしようもない嫁を娶って身を滅ぼすという意味の「枕狐」ということわざの語源である。
ちなみに「枕狐」の正式な読み方は「ちんこ」であり、「まくらこ」と読むのは正しくない。

民明書房刊『なるほど!中国ことわざ事典』より

『貫苦矢(かんくや)』

日本の正月の風習である破魔矢の一種で、その名の通り苦しみを貫く矢として正月に飾る習わしがあった。
ところが戦国時代になると「苦しみを貫き通す」という自己鍛錬の意味に取って変わり、それは恐ろしい蛮習へと変化していった。
そのきっかけを作ったのは深井兵弦(ふかいひょうげん)という武将であり、彼は貫苦矢と称して練兵の際に自分の兵に矢を撃ち、痛み苦しみを耐えさせる訓練を施した。
常人ならば逃げ出す訓練であったが、兵弦の部下たちは恍惚として喜んで矢を受けにいった。しかし実は、彼らはは痛みに耐えるためにケシの花を乱用していたのである。
その代償としてまともに戦ができる体ではなくなり、関ヶ原の戦いで東軍と対峙した時は一方的に鉄砲の弾幕射撃を受けて兵弦もろとも全滅した。
兵弦の軍勢はみな薄ら笑いを浮かべて死んでおり、これを見た徳川家康は嘆き悲しみ、貫苦矢の風習は江戸時代に入って廃止されたのである。
現在では「貫苦矢精神」という単語にその名残がある。理不尽かつ狂気的な精神論という意味で使われているが、これはもちろん兵弦の性格に由来しているからにほかならない。

民明書房刊『サイコパスの日本史』より

『伊東来風(いとうらいふ)』

裏切り、寝返りが横行していた戦国時代だが中でも伊東来風という武将は生涯に主を変えること十一度、うち三度は出戻りという、「表裏比興の者」と言われた真田昌幸をも凌駕する
裏切りと寝返りを行っていたことで有名である。その生き様から当時の人にすら「ゴロツキ、イナゴのごとし」と蛇蝎のごとく扱われていたが、どういうわけか彼に従う家臣は多く裏切られた主君も
なぜか許してしまうことから不思議な人望があったことは確かである。
その人柄を裏付ける逸話として、彼は本陣で策を巡らせることを良しとせず常に前線に立ち「頑張れ、頑張れ」と兵士を鼓舞して回り、兵士たちは死ぬ気で戦ったという。また浮浪者に対しては
仕事の世話をしてあげ、時には彼自身が裏切られることもあり人間臭い一面を伺わせている。男色家でもあり、夜な夜な小姓の陰茎を弄んでは精通させて「沢山出してえらいぞ」と褒め称えていたという。
そんな彼は男色が過ぎたのか、不摂生が祟り急死してしまうが江戸時代の講釈では大阪城の戦いで真田幸村に討ち取られたということになっている。「義の人」幸村を引き立たてさせるために
裏切りを繰り返した来風がスケープゴートにされたものと考えられる。明治以降は「戦国の世の習いに従っただけなのに殊更彼だけを責め立てるのはおかしい」といった擁護論が沸き起こるようになる。
しかし彼=ゴロツキ、イナゴといったイメージは拭い難く、戦国時代を扱ったゲームでは義理や忠誠心といったパラメータがかなり低めに設定されている。それがかえって「いかに裏切らせず繋ぎ止めるか」
「いかに裏切らせるか」といった工夫が求められることになり、ゲーム性に面白みを与えている。

民明書房刊「真田丸を百倍楽しく見る本」より

『棺講励回(かんこれかい)』

中国の僧、田中(でんちゅう)が考え出したという苦行の一つ。棺に腰掛け教えを説き、死を間近にする人々を励まして回ったことからこう呼ばれる。
修行僧は重たい棺を背負わされ川越えに好きな船を使うことすらも許されなかったため、褒美となる愛終経典を無事に手に入れられたものは全体の一分にも満たなかったとされる。
棺講を行う際には仏や悪魔の絵を人形にした方がよい、という田中の提案によって苦行として発表されるまでに二年近い延期がなされたが、
実際に苦行僧に渡された人形は田中やその知り合いが既に持っていた絵を複写し、手足を鋲で止めたのみのぞんざいな紙人形であったという。
元々動かすことを前提に描かれたものではない仏絵は動かした際に異様な角度に変形するものが少なくなかったとされ、棺講励回の批判にこれを上げる僧は数多い。

なお、芋毛(いもげ)地方の名もなき修行僧はこの苦行を完遂したのち、手に入れた愛終経典を広げて
「このような苦行など意味がない、楽しく行ってこその棺講励ではないか」
と民衆に説いた所
「自分の力不足を棚に上げて棺講励を侮辱する生臭坊主、嫌なら止めろ」
とリンチされてしまい、彼の手から愛終経典は奪われてしまったという。
現在も伝わる愛終経典の大半はこの時に奪われた愛終経典をそっくりそのまま模写したものとされる。

民明書房刊『中国僧の知られざる修行』より

『撫太郎(なでたろう)』

江戸時代後期の穢多頭(えたとう)で、その名の通り穢多身分の元締めとして上海有栖村(じょうかいありすむら)の屠殺業と皮革業を取り仕切っていた。
卑賤身分であったために村民からは忌み嫌われ本人も自分の境遇に嫌気が差し、やがて村にある東国地方一帯の崇敬を集めていた博麗神社の神主を逆恨みするようになっていった。
その折、手泣火大神(たなかおおみかみ)と伊治祖命(いちそのみこと)を布教せんとする角川大社が村に進出してきた。神官たちは上海有栖村に大社を移転しようとして
博麗神社を潰そうと企んでおり、その企みに撫太郎は乗っかった。
撫太郎は穢多身分の者とともに博麗神社の誹謗中傷と角川大社の利益を説いてまわり、一時的にではあるが村の大半の人間を改宗させることに成功する。この功績で大社から
多数の信奉者を得た男ということで「得多漢(えたかん)」という名前を与えられた。
しかし角川大社の強引な布教に業を煮やした博麗神社の氏子たちは藩主に直訴し聞き入れられ、役人の手によって撫太郎は多数の穢多、神官とともに捕縛された。
撫太郎は十日間に及ぶ拷問の末に死亡し、遺骸は細かく砕かれた上で埋葬され「玄田牛一」という差別戒名を与えられて粗末な墓を建てられたという。
部落差別撤廃が叫ばれる現在でも上海有栖村では撫太郎のことを「穢多漢」と呼んで憚らず、そのせいで部落解放同盟から糾弾の対象となったが逆に「解同には10万人の
撫太郎がいる」とネットで拡散を呼びかけ、徹底抗戦の構えを見せた。そのせいで部落解放同盟の実態が明らかになりつつあるという。


民明書房刊「差別反対の声は次の差別とともにやって来る」より 

『棚市(たないち)』

終戦直後の日本には闇市がはびこったが、中でも店舗を持たず商品の陳列棚ひとつだけで行商を行う者たちが開いた闇市を「棚市」と呼んでいた。
「いつでもどこでも棚市」をスローガンにかかげて廃墟と化した都市間を移動し、軍からの流出品や禁制品を中心に売上を伸ばしていった。
また彼らの多くは憲兵くずれの愚連隊から一般人を守る用心棒的存在であり、進駐軍相手にも一歩も退かない任侠の徒でもあった。
棚市を営む者の中には男娼の世話をしたり権力者のホモコラージュ写真で設ける猛者もいたが、やがて警察の取締対象となり戦後復興期の到来で
闇市とともに姿を消していった。

ちなみにゲイタウンとして有名な東京の新宿2丁目と大阪の堂山はかつて大規模な棚市が開かれており、男娼が世話されていた名残りが今も色濃く残っている。

民明書房刊『鎮守府解体の日 進駐軍の占領政策』より

『廬李地(のいじ)』

廬 李地[ノ イジ(No Yiji)](1990-2017 北朝鮮)

北朝鮮朝鮮人民海軍「艦隊蒐集部隊」所属の提督
かつては祖国を愛する軍人の一人であったが
愛国心と軍の腐敗を憎む心から「艦隊検証部」を組織し
最高司令官である唐 羅国[タン ナクク(Dam Naguk)]に対し謀反を企てる
その結果、彼は国賊やスパイ容疑をかけられ、ついに粛清されてしまった
その後の調査で彼は軍中枢の極秘データを不正に入手し、第三者に公開するなど
サイバー攻撃を行っていた他、恐喝や暴行などの犯罪歴も明るみになった
また「検証部」の常軌を逸した活動は、政府、諸外国さらには部内からも
たびたび問題視されており、この騒動は「艦隊蒐集部隊」の地位を貶める結果となった
「検証部」の離脱者の証言によると、離反者は自宅の住所まで調べられた後
脅迫文を送りつけられるなどのストーカー行為を受けたようである
なお、盧は死の間際に藤本氏の寿司を食べたかった旨を発言したとされている

『廃犯恥謙(はいはんちけん)』

廃犯恥謙(はいはんちけん)とは

港区政府がそれまでのただ犯すだけの下劣なタナイチを廃止して
恥じらいのあるタナイチを目指そうとした行政改革である。

IPまで導入した王政復古のイベスレ政変は事実上のタナイチが艦これイベスレから便所へ移っただけに過ぎず、
やさしいタナイチ集権を進めるには各地に未だ残るタナイチ大名領(ネームド民)の存在をどう呼び戻すかが問題であった。

新ホモカプ建設のためには「海陸警備ノ性」(軍事で勃起)・「教令率育ノ道」(性教育)・「審理刑罰ノ法」(法煽り)・「理財会計ノ方」(ネタ財)の
4つの確立の必要性を唱え、その実現にはタナ・イチ・オカ三治制の非効率さを指摘して
タナ・イチ・オカのホモカプを同一のものにする「三ホモ一致」を目指すものとした。
3つの形態に分かれた艦これ運営ホモカプを共通にしようとすれば既に港区政府から派遣されたネットに強い弁護士によって統治される形式が採られていた
「タナイチ」・「タナオカ」とは違い、新カプ推進派と岡宮信者によって治められた「オカイチ」の異質性・自主性が
「三ホモ一致」の最大の障害となることは明らかであった。 

けんちん汁(※閲覧注意)

旧日本海軍の新兵に対してのシゴキはすさまじく、中でも「歓迎会」と称して古参兵の陰茎を浸した酒を回し飲みさせられるという通過儀礼が有名であった。
しかし学徒出陣で駆逐艦秋月に配属された慶応義塾大学出身の某謙介という新兵は「歓迎会」で自分に盃が回るとおもむろに自身もブツを取り出し、酒に浸して自慰を行い
精子をぶち撒けて混ぜるやそれを一気に飲み干し、古参兵を唖然とさせた。その上酔った勢いで「秋月、俺の子を産め!」と叫んであちこちに精子を撒き散らした。
この一件がきっかけで某謙介は精神異常とみなされ除隊させられ「歓迎会」も禁止命令が出たが、彼は終戦後復学して上の武勇伝を吹聴してまわった。その結果各大学の
体育会系クラブがこぞって真似するようになり、いつしか某謙介の名前をもじって「けんちん汁」という隠語で呼ばれるようになった。
現在ではイジメの一種とみなされ廃れたものの、一部大学の武道系クラブや応援団、体育会系企業では男を磨く修行として飲み会の場で密かに行われ続けているという。


民明書房刊「実録!ザ・シゴキ」より

脚注・出典