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Dr.natural (トーク | 投稿記録) |
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彼の最期は艦国志演義第三十七回「東国角皇帝と講和し、易者遂に誅殺さる」の描写が有名である。 | 彼の最期は艦国志演義第三十七回「東国角皇帝と講和し、易者遂に誅殺さる」の描写が有名である。 | ||
※注 艦国志演義における智易空の最期 | '''※注 艦国志演義における智易空の最期''' | ||
打倒艦帝国で利害が一致した角王朝と東国は講和を結んだ。その条件として謙介のプロパガンダに協力した智易空を処刑することになった。 | 打倒艦帝国で利害が一致した角王朝と東国は講和を結んだ。その条件として謙介のプロパガンダに協力した智易空を処刑することになった。 | ||
縄で縛られ太田の元に引き出された彼は「もう二度と策をねることはしない、さあ俺を自由にしてくれないか」と命乞いをした。太田は春河にどう思うか尋ねたところ、 | 縄で縛られ太田の元に引き出された彼は「もう二度と策をねることはしない、さあ俺を自由にしてくれないか」と命乞いをした。太田は春河にどう思うか尋ねたところ、 | ||
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東国の女武将で、吾妻谷(あずまや)とともに双璧と讃えられた。無名ながら武将に抜擢されるや獅子奮迅の活躍を見せ、謙介の侵略を跳ね返した。 | 東国の女武将で、吾妻谷(あずまや)とともに双璧と讃えられた。無名ながら武将に抜擢されるや獅子奮迅の活躍を見せ、謙介の侵略を跳ね返した。 | ||
彼女は腕っぷしが強く、剣の峰で敵の頭を叩き割ることができた。易者こと智易空を処刑したのもこのやり方である。 | 彼女は腕っぷしが強く、剣の峰で敵の頭を叩き割ることができた。易者こと智易空を処刑したのもこのやり方である。 | ||
<u><font size=4>'''''前川(ぜんせん)'''''</font></u> | |||
角王朝きっての智将と謳われた男で、特に寡兵を大軍に見せかける戦術と時勢を見極めての素早い部隊展開に長けていた。謙介とともに協力して乱の平定にあたるが、 | |||
第四次東伐で東軍より多い軍勢を率いていたにも関わらずゲリラ戦に遭い大敗北を喫する。だがその後は舞鶴(ぶかく)、大湊(だいそう)、呉(ご)など沿岸沿いに拠点を築き、 | |||
港を開いて海産物と貿易により角王朝の軍を支え続けた。 | |||
謙介の反乱後は彼に従うが、彼の無能ぶりを目の当たりにしてかつて兵法を学ぶために師事した北条に身を寄せようとするが拒絶される。鎮守府の戦いではかろうじて | |||
包囲網を抜け出すことに成功し、艦軍残党を結集して北条を倒すために例大塞に特攻をかける。しかし要塞内に入ったところで罠にかかりあえなく戦死した。 | |||
彼が編み出した戦法の中に「回旋十士(かいせんずし)」がある。これは兵士を十人規模の隊に分けてそれぞれの隊が代わる代わる交替して敵を攻撃するという、 | |||
上杉謙信が編み出した車懸りの陣に類似したものである。敵に息をつく暇も与えないまま攻撃が可能だが、常に遊兵を作ってしまうという弱点があり事実何度もその弱点の | |||
せいで敗北を喫している。ところが「前川なら仕方がない」と許される雰囲気があったという。もっともその事を後世の歴史家は「だから甘えが生じて負けたのだ」と酷評している。 | |||
その一方で難攻不落の例大塞に侵入したのは彼一人だけであり、そのことを評価すべきという歴史家もいる。 | |||
<u><font size=4>'''''北条(ほくじょう)'''''</font></u> | |||
東国の武将。劉道(りゅうどう)に従って例大塞の建設に携わり、彼の死後に例大塞司令官の座を継いだ。各地で転戦しつつ兵士を集め、特に東伐以降は積極的に若手武将の | |||
登用を図り軍備を増強、反撃体制を整えることに成功した。だがその裏で太田が結婚した際には彼を讃える歌を兵士に強要して従わなかった者を斬り捨てたり、かつて兵法を | |||
教えた前川とは敵同士にも関わらず交流を続けるなどその行動には批判も多い。 | |||
前川との決戦では太田が病に斃れたため、遺言を受けて首長となり全軍の指揮を取り勝利を収めた。ところが太田の長子に首長の座を譲るべきだとの非難を浴び、まだ幼すぎるとして | |||
拒絶したが結局、政敵の手にかかり殺されてしまった。 | |||
なお、劉道は彼に暗殺されたという説が有力視されている。 | |||
<u><font size=4>'''''李稚蘇姫(いちそひめ)'''''</font></u> | |||
姫と呼ばれているが実は角王朝に仕えていた宦官で、謙介に見初められて配下になり、後に愛人となった。 | |||
白露隊と呼ばれる特殊部隊を率いており、部下からは「お父さん」と呼ばれ親しまれていた。蘭舞多の反乱では角王朝に仇する奸臣として真っ先に賞金首に上げられたが部下たちは | |||
「(お父さんのためなら自分の生命など)どうでもいい!」と叫んで必死の抵抗を見せ、奮戦したという。 | |||
だが謙介の寵愛を一心に受け続けたことで司馬歩(しばふ)、宿雁(しゅくけい)などから反感を買い、軍の士気は乱れに乱れた。また謙介が皇帝を僭称してからは奢侈な生活を送るようになり、 | |||
夜な夜な謙介と荒淫に耽る有様で寝室からは毎晩喘ぎ声が途絶えなかったとも言われている。古美渓で艦軍が兵糧攻めにあい危機に瀕している中、救援要請の手紙を破り捨ててまで | |||
謙介と酒池肉林を貪った。結局、鎮守府の戦いでは降伏の印として憎しみを募らせていた部下の手にかかり首をはねられて殺された。首はさらに細切れにされて埋葬もされず川に流されたという。 | |||
謙介との性愛は口にするのも憚れるぐらいおぞましいものであり、同性愛に寛容であった淫王朝ですら書物における彼の露骨な記述を検閲し削除したと言われている。また最近の研究では | |||
東方族の「私市陣(ししじん)」という武将と同一人物ではないかという説が上がっている。「東国史記」には「彼は部族内で問題を起こし、腐刑に処され追放されて後に朝廷に宦官として取り上げられた」 | |||
という記述があるからである。 | |||
<u><font size=4>'''''蘭舞多(らんぶた)'''''</font></u> | |||
貧農の出。謙介の命で矢矧地方での温泉採掘の強制労働に駆りだされており、仲間が次々と倒れる中怒り心頭に達した彼は「王侯将相いずくんぞ種あらんや」と叫んで反乱を起こした。 | |||
彼に同調する者は次々と現れだし、暴徒と化した彼らは「応報(おほー)!応報(おほー)!」とシュプレヒコールを上げて街を打ち壊していった。 | |||
時同じくして乱を起こした恒心教の尊師、唐澤(とうたく)と手を結び配下の勢力とともに入信、教団の中枢を担うが思想は過激化し、やがて国土浄化の名のもとに無辜の市民を虐殺するようになる。 | |||
最期は発狂して「乱、乱♪」としか呟かなくなり、土牢に閉じ込められた。彼の死期は定かではないが、食事を拒否したために少なくとも淫王朝成立前には餓死したものと思われる。 | |||
正史の編纂者である田内治曰く「彼は謙介がこの国にもたらした悲劇の最も哀れな犠牲者であった」 | |||
<u><font size=4>'''''唐澤(とうたく)'''''</font></u> | |||
法家。弟の死をきっかけに天啓を受け、恒心教を立ち上げ尊師と名乗る。邪教と忌み嫌われ何度か生命の危険に晒されたが、「声なき声に力を」というスローガンとともに決起するや反謙介の勢力が結集し、 | |||
さらに蘭舞多が信仰したことから勢力は一気に拡大した。麗別華(れべっか)、漏野(ろうや)、王銘賀(おうめいが)、糞海豹(ふんかいひょう)、由亜山(ゆあさん)など主たる武将を次々と殺害し、 | |||
放歌楼国の領土で謙介に奪われていた宴々亭(えむえむでい)を奪取する。 | |||
しかし彼の教義はやがてアナーキズムと化し、占領地では略奪暴行が繰り返されたために他の反乱勢力も持て余すようになり、最終的には角王朝御三家連合軍によって「見つけ次第殺せ」 | |||
と賊軍扱いされるようになり、誅伐によって弱小化した。後に淫王朝の世になると逮捕され、野獣帝田所によって「はっきり倭艦だね(お前の所業はは規模は小さいが艦帝国と変わらない)」と | |||
言われ串刺しの刑に処された。 | |||
過去に謙介と同じく慶應義塾と呼ばれた学問所に通っていたが、国を衰退させた二名を輩出した学問所として後の世まで笑いものになったという。 | |||
<u><font size=4>'''''仁風(じんぷう)'''''</font></u> | |||
彼の祖父が耕したとされる私田(しでん)で私服を肥やしていたが、ある日祖父から「悪い田は国を滅ぼす」と言われ、「これは太『田』を倒せという意味だ」と解釈した彼は謙介を助けようと | |||
私田を献上し、その功績によって武将に取り上げられる。また謙介も祖父は偉大なりと喧伝したため、仁風の名はまたたく間に広がった。 | |||
祖父はその後亡くなったが、喪に服さず遊び呆けるなどしたために疑問に思った同僚が調べたところ、実は祖父はとっくの前に亡くなっており私田は仁風本人が耕したものだと判明した。 | |||
つまり謙介に取り入るための自作自演だったのである。彼は糾弾されたが謙介の擁護によって救われた。しかし何度もウソを重ねたために同僚から総スカンを喰らい、失意のうちに角王朝を去る。 | |||
その後大洗の地に流れ着いたがそこのお祭りで仮装していた女子を手籠めにしようとして捕まり、車裂きの刑で殺された。 | |||
正史の編纂者である田内治曰く「彼の架空の祖父が言った『悪い田』とは太田ではなく謙介の字である『田』中、淫王朝創始者の創始者である『田』所であるとすれば彼の予言は皮肉にも当たっていた」 | |||
==艦国志の主な勢力== | ==艦国志の主な勢力== | ||
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